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ファーストCD 「生きるなら」を発表した4年前、
1995年1月、阪神淡路大震災があった。
学生だった僕は、1月末、一人用テントと寝袋と
ギターを持って、神戸の長田に向かった。
何ができるか分からないけれど、とにかく自分の目で見て、
それから何をするべきか考えようと思った。
壊れた家や、傾いたり崩れ落ちたビル。焼け跡独特の臭い。
それらは今も記憶に焼き付いている。
着いた日は長田の公園にテントを張った。
その公園には、行き場を失った人や家族が、テントや車で
生活をしていた。
その人たちが焚き火近くに誘ってくれて、それから
焚き火を囲んで色々な話を聞いた。
その日一日で、僕は、悲しさと無力さ、そして人間の持つ
たくましさと暖かさに打たれ、とにかく何か役に立ちたいと
改めて強く思った。
そして二日目からは、避難所となっていた高校の体育館での
生活が始まった。
被災者の方たちの苦しみと悲しみと渾沌(こんとん)と無気力と、
そして、やはりたくましさと暖かさと・・・。
その全てと向き合う日々の中で、
手伝いのために各地から来ている人たちも、体より
心の疲労に押しつぶされそうになっていった。
そんなとき、僕らは被災者もボランティアも一緒に、
たき火を囲んで、誰からともなく歌をうたっていた。
そのうちに、うたう人数が増え、たき火も大きくなっていった。
そこには昼間の、ぶつかりあいや色々な苦しさを忘れさせる
何かがあった。
ときには何人もで明け方近くまでうたったりバカ話をしたりした。
僕が歌の力に打たれたのは、このとき。
歌には、立ち上がる力がある!・・・と思った。
その中で湧き上がるようにできたのが、
後にこのCDのタイトルにもした
「生きるなら」という曲。
神戸を去る前日、僕は体育館でこの歌をうたった。
何人かの人が泣いていた。
その人にとって、力強い励ましの歌だったのか
酷な激励だったのかは分かりません。
でも、ああやって励ますしかなかった。
このCDのことを語るとき、僕は阪神淡路大震災のときのことを
思い出さずにはいられません。
そんなわけで、つい長い文章を読んでもらうことになって、
ちょっと恐縮。
ファーストCD の写真は、ほとんど屋久島で、
大好きな写真家・山下大明さんに 撮ってもらったものです。
屋久島に初めて行ったのは大学一年の夏だったか・・・。
それで魅力にとりつかれてからは毎年のように行くようになって、
いまや、2〜3ヶ月に一度は・・・。 いや毎月か・・・。
このCDの表紙に使った写真は、
九州の最高峰・宮之浦岳(頂上は標高1936m)の
3つ隣りくらいの山、黒味岳頂上付近です。